片岡愛之助の解明!歴史捜査 ▽<徳川事件ファイル>松平信康切腹と築山殿殺害事件
#78 <徳川家未解決事件ファイル>松平信康切腹と築山殿殺害事件
2017年06月15日21:00~2:00
事件が起きたのは、天正7年。徳川家康37歳の時である。 当時家康は、織田信長第一の同盟相手として、 武田、北条ら、巨大な戦国大名と向き合っていた。 そんな時、家康が「人生最大の痛恨事」と語ったとされる ある事件が起きた。 家康の嫡男・信康の切腹、そして正室・築山殿の殺害事件だ!
正室、築山殿は、家康が今川家に人質に取られていた時に結婚した、
今川義元の姪に当たり、瀬名姫と呼ばれていた女性。
そしてその築山殿との間に生まれた嫡男、信康。
信康は、信長の娘、五徳(徳姫)を正室として迎えていた。
通説では、事件は、徳姫が父信長に、信康や築山殿の悪行を
12項目にわたって、手紙で訴えたことから始まった。
その中に、信康や築山殿が敵である武田氏と内通している
というものがあり、信長は激怒、家康に信康の切腹させるよう命じた。
家康は信長の命令に従わざるをえず、将来を嘱望していた嫡男、信康に
泣く泣く切腹を申し付け、正室の築山殿をも殺すよう命じたとされる。
生涯、信康を死に追いやってしまった断腸の思いを語っていたという家康。
だが・・・・。
通説は、家康が神格化される中で事件の真実を隠すために
作られたものだというのだ!
家康が嫡男・信康を切腹させ、正室・築山殿を死に追いやった
本当の理由とは何なのか?
信長は本当に、家康に信康切腹を命じたのか?
捜査から浮かび上がったのは、 信長に事件の責任を押し付けた家康の姿だった! 信康と築山殿が敵の武田氏と通じていたという通説を徹底検証! 見えてきた徳川家を揺るがす陰謀とは? 徳川家康を巡るこの未解決事件を徹底的に歴史捜査します!
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