井伊直虎男性説 PartⅡ

「井伊谷徳政令」をSTOPした人物は、古文書から井伊直虎でも、次郎法師でもなく、「井伊主水佑(いいもんどのすけ)」であることが分かっているが、「井伊主水佑」は、井伊氏系図に出てこないので、どのような人物であるか分かっていない。私は、1月26日の原稿で、「どう考えても川手景隆・良則親子のどちらかだとしか考えられない」とし、父・景隆が、「川手」から「井伊」に変えることはないから、子・良則が、井伊直親の娘・高瀬姫(井伊直政の姉)の婿養子となって「井伊」と名乗ったと考え、良則の動向を調べたが、「武田軍にいた。井伊谷にはいなかった」「高瀬姫との結婚は、もっと後」というところで終わった。ちなみに、この時、父・景隆は信州の立野に篭っていた。

http://bushoojapan.com/iinaotora/2017/01/26/92992


今回見つかった新史料では、「立野に隠れていた川手主水助景隆を、永禄6年、新野親矩が井伊谷に呼ぶと、『井伊主水佑景隆』と名を変えた」とする。なるほど。「山田」から「川手」に苗字を変えたように、井伊谷へ移って苗字を「井伊」に変えたのか。

http://www.ii-museum.jp/blank-32


私が見た『川手家系譜』は活字になったもので、「景隆 山田新治郎、川手主水助」とあったが、今回発見された『河手家系譜』(古文書)は、「景隆 山田新治郎、改河手主水助、井伊主水佑、後改本苗」とあり、「井伊主水佑、後改本苗」の部分が「此所畏多し、可秘、良寛」(恐れ多いので、後裔の河手良寛が消す)として消されているという。

さて、井伊直虎男性説 PartⅠでは、井伊直虎を関口氏経の子・井ノ次郎とした。今回の史料には、その井ノ次郎が直虎だとある。関口家は、嫡流が関口親永(持舟城主。瀬名姫の父。切腹させられ、領地や持舟城は今川宗家が没収)で、傍流が関口氏経(花澤城主)と思われる。この直虎は、永禄11年、武田信玄が花澤城を攻めた時に討ち死にしたという。


疑問点は、川手主水助景隆が井伊谷に来て「井伊」、関口次郎が井伊谷に来て「井ノ次郎」を名乗っていることである。(上記のように、井伊主水佑=川手景隆・良則親子と仮定しながらも、結論まで至らなかった理由のⅠつがこの苗字の問題である。)井伊家嫡流の次郎法師の婿養子になったというのであれば理解できるが、それ以外で、「井伊」だの「井(ノ)」だの、その土地の領主、しかも平安時代から続く名家の苗字を、そんなに簡単に(?)名乗れるのだろうか?

Sengoku Mirai's 直虎の城

2017年のNHK大河ドラマで脚光を浴びた井伊直虎の情報サイト

0コメント

  • 1000 / 1000